今年度、最後となった京都大学 地域研究統合情報センターの
研究会に出かけました。テーマは「宗教実践の時空間と地域」。
研究員として末席で活動中です。
http://www.cias.kyoto-u.ac.jp/project/kydo25-2-3

発表者の一人、蔵本龍介氏(国立民俗学博物館・外来研究員)の
「統計資料からみるミャンマー出家者の世界-ライフコースと都市への棲み方-」
に現代の貧困と仏道の関係性をみました。

ビルマの「若年出家者比丘」の大半が村落出身者であり、
都市部との経済格差が著しい子供たちの教育機会は乏しく、
生活環境は劣悪だといいます。
なかでも自前の農地を持たない貧しい村の子供たちは、
出家者(沙弥)の主要な供給源であり、
同時に国軍や反政府ゲリラの主要な供給源でもあるという。

「仏道を歩もうとする子供」と「反社会的な活動に参加する子供」は
同じ村で育った同級生だったかもしれないし、兄弟だったかもしれない。
子供たちに通底するのは貧困です。

貧困が起因して反政府活動に傾倒していく子供がいる一方で、
その他の子供たちは、なぜ仏道を目指したのか?
天理教では「貧に落ちてこそ人救いができる」と説きます。
村の子供たちが初めから「貧に落ちてこそ人救いができる」と考えていたとは思えません。

蔵本氏、曰く。
10代から20代前半くらいまでは教学(経典学習)中心の生活を送り、
出家者として自立する(僧院などを構えるなど)のために仏教試験に合格すると
「僧院」(同一の信仰を持つ出家修行者僧が、共同生活を行うための施設)を
構えることができるという。
また、その僧院を都市部に持ちたいという者が大半だとも。

つまり「仏道を歩もうとする子供」たちは貧困からの脱出を図る為に仏道を目指し、
布施の規模の大きい都市部に僧院を構えることをゴールとしているのではないか。
貧困の中から立ちあがる為に、暴力ではなく、仏道により快適な生活を
手に入れることを願っている、のではないか」とも。

「阿羅漢を目指すものが、そんな本末転倒なことでどうするんだ!」って
お叱りの声が聞こえそうですが、でも、僕はこう思うのです。
貧困から脱出できる道が僧侶になる道なら、それも一手。
本末転倒だって貧困の苦しみから抜けだすことができるなら、
それも一手だと思うんです。
邪道なことでも、なんでもいいから、
もがいてるうちに身体に巻き付いたロープは緩んでくる……きっと緩むはず。

生きにくい人生を本末転倒な手段で生き抜いて来た僧侶だからこそ、
小さな光を指し示すことができる方ではないでしょうか。
いまの日本でも同じです。
本末転倒な手段でもいいから、もがいてるうちに、なんとかなる。

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