バランスがいいとも思えない私が<NEW BALANCE>しています。
http://mybeta.newbalance.co.jp/
新田さん、ありがとう〜ちなみにプロレスラーの武藤さんとは同級です。
過去の記事 → 2016年09月
ながめの、追伸です。
24日に発信した「日本型『アール・ブリュット』に抗する政治家は
いないのだろうか?」についてFBや個人当てメールにも
たくさんのご意見をいただきました。ありがとうございます。
そのなかで、少し気がかりなコメントがありました。私の友人(デザイナー)で、
私の意見に同意してくれた内容なのですが、少し深掘りしたいと思います。
彼曰く「障がい者アートを囲い込むのは美術家や美術研究者ですよね。
せっかく福祉のみなさんが彼らのために頑張ってるのに!」というものです。
私が気がかりな点は2箇所です。
まずは1箇所目。障がい者の方々の創作活動を「囲い込むのは、<すべての>
美術家や美術研究者」ではありません。
2年ほど前でしょうか、私が国の懇談会で「いま、わが国で進行中の
アール・ブリュットは障がい者の方々の創作活動を『囲い込む』ことであり、
『包摂』に向かう世界の潮流に反してはいないか」という内容の疑義を投げました。
すると、美術関係者から「アール・ブリュットによって『悲しむ人』がいると
いうことは、『喜んでいる人』がいるんですよね、それでいいんじゃないですか」
のような発言がありました。
その乱暴すぎる言葉は、私の心に突き刺さりました。
囲い込まれ「悲しむ人をつくるアート」をアートに含めていいのか?
それは倫理的(道徳、人の道)にも、ソーシャルワークの価値感に照らしても
容認し難いものでした。
そして時は流れ、今年。
違った美術関係者が文化庁絡みの展覧会のお誘いでインカーブを
訪ねてくださいました。
(残念ながら、展覧会の企画主旨が合わず、インカーブは参加を見送りました)。
彼は「学芸員が作品を選ぶ時に必要なのは、『愛』です。
『悲しむ人』をつくることはアートの本分ではない」。
刺さった棘がスルリと抜けるように感じました。
やはり、アートは人を泣かしたり、苦に追い込んではいけないのです。
気がかりな2箇所目。
「福祉の<みなさん>が彼らのために頑張ってる」方向性がすべて
正しいとは言えません。
そもそも社会福祉はポリティカルなものと親和的です。
私は、福祉事業者の<一部のみなさん>が「熱い胸の政治家」と接続し、
障がい者の方々のアート<だけ>をアール・ブリュットに囲い込むことを
発動したのではないか、と見立てています。
福祉的藝術的価値観の少ない熱い胸の政治家は「善意」で囲い込みを正当化します。
社会福祉はポリティカルなものと親和的だといっても、あまりにも行き過ぎた接続は
民意の同意は得られないように思います。いかがでしょうか。
それが戦後から続く障がい者運動の凄みといえば、いえなくもないのですが。
以上の2点が「障がい者アートを囲い込むのは美術家や研究者ですよね。
せっかく福祉のみなさんが彼らのために頑張ってるのに!」への気がかりな点と、
私なりの解釈と見立てです。
そこで、みなさん!
<すべて>の美術家や美術研究者がアール・ブリュットに障がい者の方々の
創作活動を囲い込もうとしているのではないこと。
加えて、「福祉のみなさんが彼らのために頑張ってる」方向性は一枚岩ではなく、
<一部のみなさん>がアール・ブリュットに障がい者の方々の創作活動を囲い
込もうとしていることをご理解してください。
そして、日本型アール・ブリュットの旗ふり役をしている(せざるを得ない)、
厚労省や文化庁、東京都(その他の地方公共団体)の職員にも
「それは間違っている、囲い込みって、差別でしょ。アートはアートじゃないの」
と考える方はたくさんおられます。
でもそれは悲しいかな本流ではなく、傍流です。
2020年にむかって走り出したアール・ブリュット船には、
政治家も乗りこもうとしています。
原資(お金)も国や様々な財団から積み込まれたようです。
傍流には軌道修正(例えば、本来のアール・ブリュットに戻していく。
つまり障がい者だけではなく、正規の美術教育を受けず作品つくりを楽しむ
日曜画家を含める。タブローとしての完成度だけではなく、
生き死にをリアルに表現している生々しい作品も範疇にいれる、などなど)に
目を向けていく必要があるかもしれません。
ただ、そうなると厚労省は担当を外れる恐れもある。
彼らが焦点化するのは「弱った人」であって「普通の人」ではないからです。
財源をもつ厚労省が撤退すると……書き出すとキリがりませんね(笑)。
またの機会に。
わが娘は、こんな泥臭いを話を日曜日に聞かされてウンザリ。
スミマセン、さぁ、お散歩いこ。
日本型「アール・ブリュット」に抗する政治家はいないのだろうか?
今朝の共同通信に「超党派の議員連盟が20日、障害者アートの発掘や美術館展示、
商品化などを進める新たな法案を議員立法として国会提出する方針を固めた」とあった。
記事は、紙幅も少なく深堀りできていなが、私が厚労省や文化庁、
オリンピック&パラリンピックの委員会に出席して感じる風は
「障害者アート=アール・ブリュット」の統一であり、カテゴライズであることは明白である。
委員会では、何度もなんども言うのだが「障害者アート」と括ってはダメなのだ。
それはノーマルではないし、世界の潮流ではない。
加えて、それはソーシャルワークの倫理と価値に正当性を与えるとは思えない。
なぜ、福祉系大学の1回生レベルの内容に政治家は思いを馳せることができないのだろうか。
一方、このようなポリティカルな動きを「美術家・学芸員・美術研究者」はどのように見るかである。
「普通のアート」にここまでポリティカルな追い風が吹くことはない。
その風(つまり政治家を)を自在に操る障がい者団体に恐怖を覚えるのではないだろうか?
「だから障がい者のアート活動は得体がしれない」と接続を拒むのではないだろうか?
はたして、その感情は障がいのある方々とアート活動を営む人々にとって得策といえるだろうか。
はなはだ疑問である。
2020年東京に向けて、障がい者を/障がい者の作品を「囲い込む」こと、
それを是とする法律の制定は粛々と始まっている。
わが国は「区別することは、いいことですよ」っていうのだが、
決してそうじゃないと、私の娘だけには言っておこう。
それはノーマルじゃない。
http://jp.mobile.reuters.com/article/idJP2016092001001930
友人にもオッソワケしたいです。
一年に数回、心待ちにしている番組があります。
女優・山口智子さんがプロデュースする[LISTEN.]です。
車椅子使用者の私では、到底行く事のできない山岳地帯や
氷の中に彼女は「音楽」を求めて分け入ります。
その映像の美しさとプリミティブな音楽は、ほんとうに感動もの。
涙がボロボロとでます。
くだらない解説も、こけ脅しのコメントも一切なし。
意味不明の芸能人も出ません。
昨日、彼女からお便りととろけそうなチーズケーキが届きました。
今回のLISTEN.は、[SARDINIAN](イタリアの小さな島、サルディニアン)。
知りませんでした。
シチリア島の側にSARDINIANがあったことも、
島に点在する「ヌゲラ」という古代遺跡も、その異次元の礎石方法も。
そして、SARDINIANで繰り広げられているプリミティブな音楽も。
年々、「知らへんことが、ほんまに一杯やな」って思う事が
次からつぎに出てきます。愉快です。
彼女の旅に番組を通して同伴させていただいてる僕は、得してばっかりです。
友人にもオッソワケしたいです。
ぜひ、ご覧下さい。
http://www.bs-asahi.co.jp/listen/index.html
http://www.the-listen-project.com/
2016年9月24日(土)午後1時~
Episode 22 Sardinian サルディニアン 前編
•
2016年9月25日(日)午後1時~
Episode 23 Sardinian サルディニアン 後編
ps彼女の凛とした生き方がLISTEN.を交えて伝わります。
「『まずは欲しいものに責任を持とう』ということでした。
ただ周りからあてがわれるものを消費するだけではなく、
本当に欲しいと思えるものを、長い時間をかけてずっと大切に
していけたらいいなと思いました。だから自分の欲求には責任を持って、
勇気を持って正直でありたいと思います」
http://reuse.yahoo.co.jp/p/archives/tomokoyamaguchi.html
「ドラえもん」と同じ誕生日の片岡学29歳。
現在、インカーブジュニアで子ども達と汗まみれです。
描く・虫取りする・追いかける。
ぜんぶ、OKな現場作りにはドラえもんがかかせません。