来月発売される拙著で熊谷晋一郎さん(東京大学)と対談をしました。
彼は、その中でフッサールの「ひとりひとりで、共に」の言葉を引いてくれました。
「ひとりでいる」ことと「共に」いることは背反することじゃなくて、
地続きなことで、「ひとり」でいることも「共に」いることも肯定されるべきだと。
べてるの家のスローガンは「自分自身で、共に」でしたね。
「共に」の前に、私は「ひとり」であり
「自分自身」の存在を凝視する態度にふかく頷きました。
平たくいうと「私がわたしでありながら、たくさんの人とつながる」と解してもいいと思います。
「共に」を強調すぎると根をはっていない木が連なった林ののように見えたりします。
木は「ひとり」で根をはって、隣の木の根っこと絡み合って土壌を固めるわけです。
そして根をはりやすいように土壌をならすのが微生物の役目。
社会福祉事情者も教育者も微生物であり続ける必要があるように思うのです。
そんなことを思いながらコロナ禍で中断していた「輪読会」をしました。

選んだ論文は、「対話による人間の回復:当事者研究と哲学対話」(河野哲也さん)です。
「対話は関心の同一性、すなわち、テーマの同一性を有しつつ、
それを違った観点から眺める態度に等しい。
こうした同一対象についての異なったパースぺクティブが
対話者どうしを結びつけている。パースペクティブが異なることで、
私たちは他者を理解するのである」。
私が他者と「共に」いることは「異なったパースぺクティブ」を欲するからであり、
自分の無力さを感じ、懺悔にも似た感情を呼び起こしたいからなのです。
それでも、私は、他者との壁を取り除くことはできません。
同一の水平線上に立つことは許されないように思うのです。
でも、それでよし。というのが今のところの着地です。