ながめの、追伸です。
24日に発信した「日本型『アール・ブリュット』に抗する政治家は
いないのだろうか?」についてFBや個人当てメールにも
たくさんのご意見をいただきました。ありがとうございます。
そのなかで、少し気がかりなコメントがありました。私の友人(デザイナー)で、
私の意見に同意してくれた内容なのですが、少し深掘りしたいと思います。
彼曰く「障がい者アートを囲い込むのは美術家や美術研究者ですよね。
せっかく福祉のみなさんが彼らのために頑張ってるのに!」というものです。
私が気がかりな点は2箇所です。
まずは1箇所目。障がい者の方々の創作活動を「囲い込むのは、<すべての>
美術家や美術研究者」ではありません。
2年ほど前でしょうか、私が国の懇談会で「いま、わが国で進行中の
アール・ブリュットは障がい者の方々の創作活動を『囲い込む』ことであり、
『包摂』に向かう世界の潮流に反してはいないか」という内容の疑義を投げました。
すると、美術関係者から「アール・ブリュットによって『悲しむ人』がいると
いうことは、『喜んでいる人』がいるんですよね、それでいいんじゃないですか」
のような発言がありました。
その乱暴すぎる言葉は、私の心に突き刺さりました。
囲い込まれ「悲しむ人をつくるアート」をアートに含めていいのか?
それは倫理的(道徳、人の道)にも、ソーシャルワークの価値感に照らしても
容認し難いものでした。
そして時は流れ、今年。
違った美術関係者が文化庁絡みの展覧会のお誘いでインカーブを
訪ねてくださいました。
(残念ながら、展覧会の企画主旨が合わず、インカーブは参加を見送りました)。
彼は「学芸員が作品を選ぶ時に必要なのは、『愛』です。
『悲しむ人』をつくることはアートの本分ではない」。
刺さった棘がスルリと抜けるように感じました。
やはり、アートは人を泣かしたり、苦に追い込んではいけないのです。
気がかりな2箇所目。
「福祉の<みなさん>が彼らのために頑張ってる」方向性がすべて
正しいとは言えません。
そもそも社会福祉はポリティカルなものと親和的です。
私は、福祉事業者の<一部のみなさん>が「熱い胸の政治家」と接続し、
障がい者の方々のアート<だけ>をアール・ブリュットに囲い込むことを
発動したのではないか、と見立てています。
福祉的藝術的価値観の少ない熱い胸の政治家は「善意」で囲い込みを正当化します。
社会福祉はポリティカルなものと親和的だといっても、あまりにも行き過ぎた接続は
民意の同意は得られないように思います。いかがでしょうか。
それが戦後から続く障がい者運動の凄みといえば、いえなくもないのですが。
以上の2点が「障がい者アートを囲い込むのは美術家や研究者ですよね。
せっかく福祉のみなさんが彼らのために頑張ってるのに!」への気がかりな点と、
私なりの解釈と見立てです。
そこで、みなさん!
<すべて>の美術家や美術研究者がアール・ブリュットに障がい者の方々の
創作活動を囲い込もうとしているのではないこと。
加えて、「福祉のみなさんが彼らのために頑張ってる」方向性は一枚岩ではなく、
<一部のみなさん>がアール・ブリュットに障がい者の方々の創作活動を囲い
込もうとしていることをご理解してください。
そして、日本型アール・ブリュットの旗ふり役をしている(せざるを得ない)、
厚労省や文化庁、東京都(その他の地方公共団体)の職員にも
「それは間違っている、囲い込みって、差別でしょ。アートはアートじゃないの」
と考える方はたくさんおられます。
でもそれは悲しいかな本流ではなく、傍流です。
2020年にむかって走り出したアール・ブリュット船には、
政治家も乗りこもうとしています。
原資(お金)も国や様々な財団から積み込まれたようです。
傍流には軌道修正(例えば、本来のアール・ブリュットに戻していく。
つまり障がい者だけではなく、正規の美術教育を受けず作品つくりを楽しむ
日曜画家を含める。タブローとしての完成度だけではなく、
生き死にをリアルに表現している生々しい作品も範疇にいれる、などなど)に
目を向けていく必要があるかもしれません。
ただ、そうなると厚労省は担当を外れる恐れもある。
彼らが焦点化するのは「弱った人」であって「普通の人」ではないからです。
財源をもつ厚労省が撤退すると……書き出すとキリがりませんね(笑)。
またの機会に。
わが娘は、こんな泥臭いを話を日曜日に聞かされてウンザリ。
スミマセン、さぁ、お散歩いこ。