日本型「アール・ブリュット」に抗する政治家はいないのだろうか?
今朝の共同通信に「超党派の議員連盟が20日、障害者アートの発掘や美術館展示、
商品化などを進める新たな法案を議員立法として国会提出する方針を固めた」とあった。
記事は、紙幅も少なく深堀りできていなが、私が厚労省や文化庁、
オリンピック&パラリンピックの委員会に出席して感じる風は
「障害者アート=アール・ブリュット」の統一であり、カテゴライズであることは明白である。
委員会では、何度もなんども言うのだが「障害者アート」と括ってはダメなのだ。
それはノーマルではないし、世界の潮流ではない。
加えて、それはソーシャルワークの倫理と価値に正当性を与えるとは思えない。
なぜ、福祉系大学の1回生レベルの内容に政治家は思いを馳せることができないのだろうか。

一方、このようなポリティカルな動きを「美術家・学芸員・美術研究者」はどのように見るかである。
「普通のアート」にここまでポリティカルな追い風が吹くことはない。
その風(つまり政治家を)を自在に操る障がい者団体に恐怖を覚えるのではないだろうか?
「だから障がい者のアート活動は得体がしれない」と接続を拒むのではないだろうか?
はたして、その感情は障がいのある方々とアート活動を営む人々にとって得策といえるだろうか。
はなはだ疑問である。

2020年東京に向けて、障がい者を/障がい者の作品を「囲い込む」こと、
それを是とする法律の制定は粛々と始まっている。
わが国は「区別することは、いいことですよ」っていうのだが、
決してそうじゃないと、私の娘だけには言っておこう。
それはノーマルじゃない。
http://jp.mobile.reuters.com/article/idJP2016092001001930